ロスベイ霊園の日本人墓地:歴史の縮図 Part II

Vincent A. ELC Research International


掘り起こされて修復された墓石

カナダ日系移民の歴史:差別と排斥の原点

Part Iでは,ロスベイ霊園に埋葬されている初期日本人移民たちの墓の有りようにはカナダの日系移民の歴史が凝縮されていると述べましたが,その日系移民の歴史について少し詳しくお話ししましょう。

カナダの日系移民(日本人移民およびその子孫)は太平洋戦争(1941-1945)で強制移動・キャンプ抑留という悲惨な人種差別・排斥を受けましたが,実は日系移民に対する差別や排斥はそれよりもずっと前からあったのです。

日本からの移民は明治20年代(1880年代後半)に本格化しましたが,早くも明治34年(1901年)には日本政府がカナダ向け旅券発行を停止する自主規制を行っています。当時の日系移民のほとんどはBC州に居住しており,州内の日系移民が増えすぎた結果,カナダ人と間に軋轢(あつれき)が生じていました。この規制は,新規移民を自主的に制限して排日運動の拡大を防ぐための処置でした。

一般に移民が排斥される要因はいくつかありますが,移民人口の増大が最も大きな要因でしょう。移民(=異民族)が急激に増大すればそれだけで,移住先の住民は自分たちの生活が脅かされるのではという漠然とした不安を抱くでしょうし,また実際に地域住民の就業の機会が移民増大により失われることもあるからです。

カナダは移民を奨励する一方で増えすぎた移民を排斥するという行動矛盾を建国当初よりかかえていました。カナダ政府による移民排斥の歴史は,日本からの移民が本格化する前の1885年(明治18年)の中国人移民法まで遡(さかのぼ)ります。当時,カナダ太平洋鉄道の建設で大量の中国人労働者がカナダに流入しますが,あまりに増えすぎてカナダ人労働者の職を奪います。この流入数を絞るため中国人ひとり当たり50ドルの人頭税を雇用主(建設業者)に課しますが,中国人労働者は低賃金で働きますので人頭税を払っても安上がりなため,流入数は減りません。最終的にこの人頭税は500ドルまで増額されました。

さて,カナダ日系移民の歴史ですが,歴史には節目というものがあります。人口増による日系移民排斥という流れの中での大きな節目が1907年(明治40)年に訪れます。その10年ほど前にハワイは米国に併合され,準州(自治領)となっており,ハワイに住んでいた日系移民たちの多くが,ハワイでの低賃金・重労働を嫌って米国本土に移り住むようになっていました。しかし,1907年(明治40年)に米国がハワイ準州の日系移民の米国本土への移住を禁止しました。その結果,ハワイの日系移民は米国本土に移れなくなり,彼らはカナダに流入するようになったのです。

折しも「White Canada」をスローガンに掲げる保守党がBC州選挙で勝利したこともあり,BC州では日系移民などアジア人への排斥運動が拡大し,ついにバンクーバーの日本人街と中国人街がカナダ人によって襲撃されます。実際には損害は軽微で賠償も受けましたが,この事件を契機としてカナダ政府は日系移民を本格的に締め出す政策に転換します。手始めがルミュー協定です。これは日系移民の数量的制限に関する日加政府間の合意で,その後数回の改訂を経て制限が強化されます。

当初のルミュー協定は移民数を年間400人に制限しましたが,移民の配偶者と子どもは制限対象ではなかったため,「写真婚」といわれる婚姻(見合いをせず写真だけで結婚を決めて婚姻届を済ませる婚姻形態)により妻となった日本人女性のカナダ移住が盛んに行なわれるようになり,結果として日系移民数の増大が抑えられなかったとのことです。

増大する日系移民に対するカナダ人の敵意は1931年(昭和6年)の満州事変,1937年(昭和12年)の廬溝橋(ろこうきょう)事件などを経て強まりますが,その敵意はついに1941年(昭和16年)の真珠湾攻撃で決定的となります。その結果,カナダ政府は1942年(昭和17年)に日系移民の抑留・拡散移住政策を実施するに至りましたが,前述のルミュー協定がこの排斥政策の原点であるといわれています。

ただ,筆者は,社会体制の維持に都合が悪くなれば移民を排斥すればよいという考え方の原点は,ルミュー協定よりずっと前の,前述した 1885年(明治18年)の中国人移民法にあるように思います。つまり,日本からの移民が本格化する前にカナダにはすでにそのような価値観──移民は都合の良いときだけ利用すればよいという考え方──があったのではないかと思います。


英国・米国の影響

さて,日系移民の歴史のなかにはもうひとつ見落とすべきでない点があります。それは,日系移民のカナダ入国が認められるかどうか,入国した日系移民がカナダ社会に受け入れられるか否かという日系移民の処遇は,出身国である日本と受け入れ国であるカナダ両国の関係だけでなく,日本と英国,日本と米国という国際関係にも大きく影響されてきたという点です。

まずポジティブな影響をみてみましょう。日本は英国との間に1894年(明治27年)に日英通商航海条約を結び,続いて1902年(明治35年)に日英同盟の締結に成功し,英国と友好関係を築きます。カナダは英連邦に属していますので,以後,カナダ政府は日英同盟に反する法律を制定できなくなります。日系移民の増大に対してカナダ政府は,前述のルミュー協定を日本政府に認めさせて日系移民数を制限しましたが,中国人に課した1885年(明治18年)の人頭税のような人種差別措置は日系移民には取りませんでした。これは,カナダ政府は英国と友好関係にある日本からの移民を差別的に制限する法律を制定できず,日本政府が合意・承認した協定にのっとって入国数を制限するという“紳士的な”方法に拠らざるを得なかったからといわれています。

ネガティブな影響ももちろんあります。戦前,約23万人の日本人がハワイに移住しましたが,低賃金・重労働という過酷な労働状況であったようです。前述のように1897年(明治30年)に米国がハワイを併合して自治領(準州)とすると,ハワイの日系移民も米国本土へ自由に移動できるようになり,結果として,大量の日系移民が高賃金が得られる米国本土に移住します。しかし,米国本土でも日系移民が増えすぎて排斥運動が高まり,米国政府は前述のように1907年に日系移民の米国本土への移住を禁じます。その結果,今度はハワイの日系移民が大量にカナダに流入することとなり,カナダ社会における排日・反日感情を刺激してしまいます。これがバンクーバー暴動を引き起こす一因ともなりました。

いつの時代でも,移民の生活は大波に揺られる小舟のように,良くも悪くも世界情勢の影響をダイレクトに受けるということでなのす。

カナダ日系移民排斥の要因には,以上の移民人口の急増の他にいくつかの要因がありますが,それについては次の記事で述べることにいたします。

(「ロスベイ霊園の日本人墓地:歴史の縮図 Part III」に続く)


※本稿はJaponism Victoria, Vol.5, No.2 (2010)に掲載の記事「ロスベイ墓地と日系コミュニティ Part II」を一部修正して再掲載したものです。


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